妖精の国からのお知らせ | |
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§1 妖精の国への招待状 あなたの親友である妖精イギーネ・キルッピが、あなたを妖精の国へ招待いたします。どうか私たちの国へいらしてください。 妖精の国への道はまっすぐな道ですが、人間にとっては少々迷いやすい部分もあります。 そこで、私たちは、この手紙で、あらかじめ正しい道をお知らせしておこうと思います。 そうすれば、あなたが妖精の国を目指したくなったとき、いつでも正しい道を歩くことができるからです。 妖精の国への道しるべは、あなたの心の中にあります。だから、分かれ道にさしかかったら、心に照らして、正しいと思われる方を選んでください。それが正しい道です。 そのようにして道を選んでいる限り、たとえ結果的に“失敗だった”と思われることがあったとしても、それは正しい道です。 道を間違える間違え方には、本質的に違うふたつの種類があります。 第1は「いいと思ったことが、失敗だった」という場合です。 これは地上におけるあやまちです。 これはあやまちのように見えるだけで、本当のあやまちではありません。 あなたは「道を誤り遠回りをした、損をした」と思うかも知れませんが、実はそうではありません。 回り道は、その回り道を歩くための最短経路です。 どんな回り道にも、その道を歩かなければ味わえない独特の景色があります。だから、その景色を味わってください。その景色を見ることこそ、深い意味での近道だからです。 あなたが地上で犯すあやまちはすべて許されます。地上において“成功”であるか“失敗”であるかは、あなたの前進とはまったく無関係です。 第2のあやまちは「いいと思ったことをしなかった」という場合です。つまり、内心「こうするのが正しい」と思いながら、それを実行しない場合です。あるいは、内心「こうするのは本当は正しくない」と思いながら、それをしてしまう場合です。 これは心の中で犯すあやまちです。 このようなあやまちは永遠に許されることがありません。 例えば、電車の中で老人に席をゆずるべきだと感じながらゆずらない場合がこれです。 あなたが老人を見ても何も感じないなら、あなたに罪はありません。言わば光が見えなかったのです。 しかし、「私は席をゆずるべきだ」と思いながら席をゆずらないとしたら、あなたは心の中で罪を犯しています。言わば、光を見ながら、あえてその光から顔をそむけたのです。 他方、あなたが席をゆずったとして、相手がかえって気分を害することがあるかも知れません。この場合、あなたはかえって相手に対して悪いことをしたことになります。けれど、それでも、あなたは善いことをしたのです。 あなたがあなたの中のいちばん澄んだ気持ちに誠実に従っている限り、たとえその結果がどうでようとも、あなたは光へ向かって歩いています。 ここで私たちが言いたいのは「老人には席をゆずるべきだ」ということではありません。「何であれ、あなたがそうすべきだと結論したなら、あなたはそれをしなければいけない」ということです。 誰にでも分かりやすいように「老人をいたわる」という“常識的”な世のいわゆる善行を例にとって説明しましたが、ここで本当に問題になっているのは「あなたにとっての真実」です。 あなたが「自分はこうすべきだ」と感じることが、あなたにとっての真であり、あなたにとっての善です。それは世にいう善ないし世にいう“正しさ”と一致することもあるでしょうし、一致しないこともあるでしょう。 来月には死ぬ子供が「来年の夏は海に連れてってね」と言い出したとき、あなたはいつわりの約束をしたくなるかも知れません。その気持ちがあなたの真実であれば、あなたにとって真実とは嘘をつくことです。 あなたの行動に関する限り、「嘘をつくのは悪いことだ」といったいわゆる“真理”より、あなた自身の真実の方が上位にあります。あなたの意思決定に関しては、あなたはほかのあらゆるものから独立した最高の権威を持っているのです。 若い人が「私は本当は絵かきになりたいのだが、銀行員になったほうが安定した生活が送れる」という選択の局面に立たされている場合を考えてみましょう。世間一般の常識から見れば、銀行員になれるのならなったほうが正しいというものです。 しかしながら、肝心なのは本人にとっての真実です。いくら物質的には繁栄し、世間的に見て“成功”の人生を送っても、あなたがあなたの気持ちを裏切っていれば結局心は満たされないでしょう。 芸術家が創作の過程において、「私の心に照らすとAが正しいのだが、それでは世間受けはねらえない。Bの方が絶対に良い評価を得られる」というA・B選択の局面に立たされている場合にも、まったく同じことが言えます。Aを選ぶことは地上での不成功をもたらすかも知れませんが、それこそが彼にとっての真であり善であり美なのです。 真・善・美は、その実相においては同じひとつのものです。それは「その人自身にとっての真実」ということなのです。 正しいことが分かっていながらそれを実行しないことがあるのはなぜでしょうか? それは肉体の五感のせいです。心のいちばん澄んだ部分(以下ではしばしば「魂」という言い方をします)では〈こうするのが正しい〉と分かっていても、それが身体的につらいこともありますし、物質的な不利益を招くこともあります。また、あなたがその選択をした場合における、他人の目や世間の評価が気になることもあるでしょう。 けれど、よく考えてみると、結局は肉の感覚より魂に従ったほうがトクなのです。 なぜなら、あなたが(「あなたの魂が」という意味です)本当にしたいことをしない限り、いくら肉体的な快楽を得ても、また他人から良い評価を得ても、あなたの心は満たされないからです。逆に、あなたがあなたの真実を追求するのであれば、たとえ多少つらいことがあっても、また他人からとやかく言われても(あるいは無視されても)、あなたは人生において深い満足と充実を味わうことができるでしょう。 これを別の角度から見ると、あなたの真実を追求するということは、物質的なものや世間の評価への執着を捨てる、ということなのです(「執着を捨てる」というのは「得てはいけない」という意味ではありません)。 物質的な成果も失敗も、すべて一時的です。肉体の五感によって感じられる喜びは、すべて一時的です。そもそもあなたの肉体そのものが一時的です。 いくらあなたがあなたの肉体を甘やかしても、あなたの肉体は結局「恩をあだで返す」だけでしょう。やがてあなたに苦しみをもたらしつつ滅びるのです。 これに反して、自分の魂に忠実であれば、永遠的なものである真・善・美の輝きを知ることができます。それは、肉の感覚による快楽などとは、まったく次元の違うものです。 要するに、魂の感覚に従うということは、深い意味で「計算高い」ことです。トクなことなのです。 自分のトクになるようなことをするのは「利己的」だから悪いことでしょうか? 物質界においては、利己は相対的に他者の不利益をもたらします。物質は有限だからです。このような利己は一般にはあまり善いこととは言えないでしょう。 しかし、あなたが精神的に豊かになることは、スピリチュアルな観点において、誰の不利益をももたらしません。それどころか、あなたの心が豊かになれば、あなたはその恵みをほかの人にも分けてあげることができるようになるのです。スピリチュアルな恵み、すなわち真・善・美は、普遍的であり、無限にして永遠だからです。あなたがそれを「くみあげる」ことができるようになれば、それはみんなのためにもなるわけです。 したがって、魂の成長に関する限り、「利己的だからいけない」という批判は的外れです。あなたは魂の真実を追求すべきなのです。 しかし問題はそんなに単純ではありません。ほとんどの人の魂はまだ充分に目覚めていないからです。意識の中で、肉の感覚と魂の感覚がこんとんとしているのです。言い換えれば、スピリチュアルな意味で目が曇っています。 若い人が「私は銀行員より絵かきに向いているような気がする」と思ったとして、それが本当にその人の魂の感覚なのかどうかは誰にも分かりません。実は肉の感覚に照らして「絵かきのほうがなんとなくラクそうな気がする」と思っているだけかも知れないのです。 ですから、あなたが重要な決断をする場合には、心を澄ますことが何よりも大切です。 判断できないときは、すぐには結論を出さず、一晩寝て考えるといいでしょう。当たり前のことですが、肉が眠っているときの方が、肉の五感に惑わされずに善く考えることができるからです。目覚めのときの霊感はあなたが持っている最上のものです。 また、問題点とそれに対するあなたの気持ちを書き出してみるのも良い方法です。思いつくことをどんどん書いてゆくのです。自分の書いた言葉で自分自身を触発してそこからまた言葉が生まれる、というフィードバックを作るのです。この場合も、夜に書いて、そのまま一晩眠って、また翌朝考えるようにすれば、さらに確実でしょう。未来に対する直感は右脳の無意識の中にありますが、決断は左脳の言語野で行っています。ですから、心の中だけで考えず、いったん文字にして、ロジックとそれに対する「感じ」とを分離・再交差させることは極めて有益です。 論理的に考えて「こうするのが正しい」と答が出ても、なんとなくすっきりしないことがあるでしょう。そんなときは要注意です。言葉のロジックによって自分をだましていることがよくあります。「なにかしっくりしない、なにかが間違っている」と感じるときは、立ち止まってよく考えてみてください。できるだけ選択を保留して、様子をみてください。 逆に、澄んだ心で、「理由はよく分からないけど、なんとなくこうするのがいいと思う」と感じるとき、その結論はだいたい正しいのです。 最終的には、あなた自身の直感を信じてください。あなたの直感は間違っているかも知れません。でも、そのような試行錯誤を通じてこそ、あなたの魂の感覚は研ぎ澄まされ、あなたは目覚めてゆくのです。 魂が目覚めてくると、正しいことをしているときには楽しい感じがするようになります。逆に、正しいことをせずにほかのことをしているときには「なじまない」感じがします。 早くこの感覚を覚えることです。そうすれば「私は今したいことをする。今したくないことはしない。それで正しい」と断言できるようになります。 そのためには、曇った目でもいいから、自分で見てください。転びながらでもいいから、自分で歩いてください。自分が歩けることを信じない人は、自分で歩いてみようとしないので、いつまでたっても歩けるようになりません。 地上における失敗より、むしろ自分を裏切ることを恐れなさい。地上における結果は“失敗”でもいいから、〈私〉という方向探知器を信じて、自分でいちばんいいと思うことをせいいっぱい実行してごらんなさい。それがあなたにできる最上のことです。 妖精の国への道は単純で、まっすぐです。それは、いつでもせいいっぱい生きるということです。 これは楽しい道です。なぜなら、いつでもせいいっぱい生きるからです。いつでもせいいっぱい生きること以上に、充実した、楽しい人生はありえません。 分かれ道にさしかかるたびに、いつもいちばんいいと思う選択をしていれば、たとえその結果がどうなろうとも、「いっしょうけんめい考えて、そのときにはそれがいちばんいいと思ったのだから、仕方がない。これ以上のことはできなかった」とすっきり思うことができます。それでいいのです。それが人間にできる最上のことです。 そして、それこそが、妖精の国への道なのです。 「結果を求めず、あなたの真実に従いなさい」 この言葉は少しも感動的ではありませんが、真理の深い断面をとらえています。 結果を求めず、ということは、地上における“成功・失敗”を平等視する、ということです。 地上において成功しても、それは一時的です。地上において失敗しても、ほとんどの場合、何らかの形で取り返しがつくでしょう。成功にせよ失敗にせよ、あなたの行いはやがて消えます。 これに反して、あなたが心の中で自分の真実を裏切るなら、そのことはもう永遠に取り返しがつきません。だから、心の中で犯すあやまちは永遠の罪と言われるのです。 高ぶってはいけません。見えを張らず、強がらず、自分の素朴な真実に謙虚に従ってください。 低ぶってはいけません。自分の小さな真実をかけがえのないものとして尊重してください。 ユーラ・ゼーア、あなたの歩く道には、あなたが絶対に通過できないほど困難な部分はひとつもないはずですよ。必ずどこかに答があるのです。必ずどこかに出口があるのです。 神は真実な方です。あなたに背負いきれないような重荷をあなたに背負わせることはありません。あなたに歩けない道をあなたに歩かせようとするようなことはありません。 むしろ、数学の証明のような、何の含むところもない、最短の、最も歩きやすい道を、あなたのために用意しておられるのです。 だからあなたは、いつでも甘いお菓子がもらえないからと言って嘆いてはいけません。 甘いお菓子ばかりではあなたはすこやかに成長できず、虫歯になって、あとでかえって苦しむのです。 神様は、あなたの嫌いなにんじんを、あなたの口へ運びます。すべてはあなたのためなのです。あなたはいつまでも乳飲み子のままでいてはいけません。恐れずに噛みしめなさい。目をそむけず嫌というほど味わいなさい。味わいつくしなさい。そして飲み込みなさい。 口には苦いその食べ物は、あなたの中で、朽ちることのない、永遠の、清らかな光に変わるからです。 ユーラ、あなたが幸せになる方法を教えてあげます。それはあなたの過去を完全に構造化してしまうことです。 何が起こって、それが原因でどうなったか。なぜそれが起こったのか。彼女はなぜそんなに脆弱だったのでしょう? あの人はなぜあなたにそんなことを言ったのでしょう? すべて物事には原因があるはずです。できる限り解明しなさい。冷酷なまでに客観的な自伝を編むのです。 気になっていることを、すべて綴りなさい。思い出したくない悲しみも苦しみも、すべて直視しなさい。不思議と鮮明に記憶に残っている子供時代のささいなエピソードを分析してごらんなさい。 言葉の鏡に映し出し、その鏡をのぞき込むのです。言葉のあいだから、もっと深い問題が見えてくるでしょう。それをさらに追究してゆくのです。すべてをとことん分析し、何もかも言葉にしてしまうのです。 いちど言葉にしてしまえば、あなたは強くなって、そのことを直視することができるようになります。これに反して、いつまでも心の中だけにしまっておくと、そのことは「嫌な思い出」「思い出したくない思い出」として、かえって折に触れ何度も思い出されるのです。 夏休みの宿題と同じです。手をつけずに放っておくと、忘れたくても忘れられず、いつも潜在的に心の重荷になっています。「思い出さないようにしよう」という無意識の努力が重荷になるのです。いちど宿題に直面して、それを終わらせてしまえば、すべてすっきりします。終わらせた宿題のことなど、そうそう思い出すこともない 心の中にあるものを言葉にする、ということは、今まで意識していなかったものを意識する、直視する、ということです。自分の弱みを直視する強さを持つ、ということです。 直視しようとしない限り、それはあなたの弱みとしていつまでも残ります。その上、「思い出さないようにしよう」という無意識の努力が心の重荷となるのです。 自分の弱みを直視し、ありのままの自分に直面すれば、心の苦しみはなくなります。脳の無意識のもやもやを、左脳の言語野でくみあげてしまうのです。構造化してしまうのです。どろどろした生の記憶を、単語のモジュールで“デジタル処理”してしまうのです。 ぐしゃまらの部屋を掃除して、なにがなんだか分からない、とほうもない山づみを、なくしなさい。 ごみは捨てて、山にうずもれていた大切なものをきちんと棚に並べてごらんなさい。 気持ちを整理する、ってことです。 あなたを苦しめているのは、そのぐしゃまら山なのです。あなた自身なのです。 あなたが許そうが許すまいが過去は変わりません。変わるのはあなたの心です。あなたが許せばあなたはそのことによって清められ、美しくなる。あなたが恨みつづけている限り、あなたは決して軽やかになれない。 実に、きれいなおけからはきれいな水がくまれ、汚れたおけからは汚れた水が流れ出ます。あなたから憎しみが流れ出るのを見たら、恐れなさい。「心の醜い私を憐れんでください」と神に祈りなさい。 美しい水はあなたの内側を洗い清め、よごれた水はあなたの内側をよごします。しかし美しい部分から美しいものを出しても、その部分はもう美しくなりません。すでに美しいからです。あなたの中の醜い部分と向きあってください。あなたが本当の意味で美しくなりたいのなら、それをするしかありません。心を透きとおらせ、心を軽やかにしたいのなら、自分の中の闇を直視し、それに立ち向かうしかありません。 すべての過去を許しなさい。いまあることを、あるがままに、あらしめなさい。すでにあることはそれとして受け入れ、その上に立って、どうするのがいちばん善いか考えてください。 すべて事実が出発点です。事実はどうしたって事実なのです。それを「嫌だ」と言って、そこから目をそむけていては、何も始まりません。目をそむけていれば、かえっていつまでも「嫌な」状態が続くのです。 不満があるなら、行動しなさい。現実に働きかけるのです。あなたは働きかけることができるのです。働きかけていいのです。 |
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